神奈川県立相模原高等学校のタイトル
「校長挨拶」へジャンプ。「alt」キー+「Q」キーを押し、「Enter」キーを押してください。 「学校生活」へジャンプ。「alt」キー+「W」キーを押し、「Enter」キーを押してください。 「お知らせ」へジャンプ。「alt」キー+「E」キーを押し、「Enter」キーを押してください。 「アクセス」へジャンプ。「alt」キー+「R」キーを押し、「Enter」キーを押してください。 「トップページ」へジャンプ。「alt」キー+「T」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
学校案内
「校長挨拶」へジャンプ。「alt」キー+「A」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「校訓」へジャンプ。「alt」キー+「S」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「教育方針」へジャンプ。「alt」キー+「D」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「教育の特色」へジャンプ。「alt」キー+「F」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「カリキュラム」へジャンプ。「alt」キー+「G」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「沿革」へジャンプ。「alt」キー+「H」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「校章・校歌」へジャンプ。「alt」キー+「J」キーを押し、「Enter」キーを押してください。
「進路」へジャンプ。「alt」キー+「K」キーを押し、「Enter」キーを押してください。

トップ >> 学校案内 >> 校訓
校訓のタイトル
研究紀要「県相の風−教育活動と研究・実践の記録2006−」(2007.3.28発行)より

今改めて、校訓「礼節・信義・根性」を考える

                    神奈川県立相模原高等学校 教諭 山内 次雄

序 章
 各クラスの黒板の上に校訓「礼節・信義・根性」が掲げてあります。が、それが実際に目に留まり、その言わんとすることを理解できているのかどうか、はなはだ疑問に思う挙動が生徒諸君の間に多々見受けられます。そのような訳で、これから様々な視座から校訓の意味を考え、私なりに解釈していくことにします。まずは、みなさんに校訓の精神ともいうべきものを考えてもらうためには材料提供をしておく必要があるでしょう。
 初代校長の小泉隆先生は相高新聞(県相新聞の前身)第5号(昭和40年8月16日発行)に掲載された「校訓について」と題する論説で次のように述べています。

 「形にあらわれなければ礼は認めないというが形式は先ず精神が整えば自ずからにじみ出るはずである。世の中が封建社会であろうと、民主社会であろうと、人間が互いに共同社会を営む上に欠くことのできない、またすべての基盤となるものが礼であると確信する。学問をするにせよ、運動に励むにせよ、礼の精神を涵養しなければその成果を期しがたい。こういう意味合いから、先ず第一に礼節を掲げたのである。」

 このように小泉先生は社会生活を営む上での、とりわけ「礼」の重要性を説いていますが、もちろん、学校という場を一つの共同社会と考えてのことであることは言うまでもありません。さらに、この一節の前段で『論語』の中で顔淵(がんえん)が孔子に「仁」とは何かと問い、それに孔子が答える件を引き合いに出しています。その件を小泉先生は次のように解説しています。

 「孔子は之に次のように答えた。己をせめて礼にかえるを仁となすと…中略、更に顔淵の商(ママ)に対して孔子は、礼にあらざれば視ることなかれ、礼にあらざれば聴くことなかれ、礼にあらざれば言うことなかれ、礼にあらざれば動くことなかれ、と。つまり礼にはずれたことは見えない、聞かない、言はない、しない、ということで、生活上のこまかい具体的な規範が礼である。」

 この解説に相当する部分の原文は読み下しでは次のようになります。

 「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復するを、仁と為す。一日己に克ちて礼に復すれば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。人に由らんや、と。顔淵曰く、其の目を請い問わん、と。子曰く、礼に非ざるもの視ること勿れ、礼に非ざるもの聴くこと勿れ、礼に非ざるもの言うこと勿れ、礼に非ざること動くこと勿れ。顔淵曰く、回不敏と雖も、請う斯の語を事とせん、と。(現代語訳:顔淵が仁とは何でしょうか、と質問した。孔子はこう教えられた。『利己を抑え、〔人間社会の〕の規範(礼)に立つことが仁である。ひとたび利己を抑え、規範を実行するならば、世の人々はみな、〔それを見習って忘れていた〕仁(人の道)を実践することになるだろう。人の道を実践するのは、己の覚悟しだいなのであって、他人に頼ってできるものではない』と。顔淵はおたずねした。『その実践内容はどのようなものでありましょうか。お伺いします』と。孔子はこう述べられた。『規範でないもの、それを視るな、聴くな、言うな、行うな』と。顔淵は『私め、至りませぬが、そのお言葉を第一として生きて行きます』と答えたのであった。)」(『論語』)
枯山水
      <昭和48年(1973年)創立10周年記念庭園「枯山水に校訓を表現>

第一章 礼節とは

 小泉初代校長の「世の中が封建社会であろうと、民主社会であろうと、人間が互いに共同社会を営む上に欠くことのできない、またすべての基盤となるものが礼であると確信する。」という件を読んだ時、真っ先に頭に思い浮かんだのは聖徳太子の十七条憲法でした。
 ご存知のように十七条憲法の第一条は「和(やはらか)なるを以て貴(たふと)しとし」という有名な言葉で始まります。この「和」は第一条から第十七条までを貫く、コンセプトであると同時に思想でもあります。当時の時代背景を意識した、あるいは逆説的に反映した言葉と言っていいでしょう。
 当時は推古天皇の治世ですが、聖徳太子は推古即位と同時に摂政となりました。推古元(593)年のことです。推古の即位は、歴史上の類まれな天皇暗殺事件、すなわち蘇我馬子による崇峻天皇暗殺を受けてのことでした。また、この事件に先立って、崇仏・排仏論争の末に、用明2(587)年、物部氏が蘇我氏に滅ぼされる事件もありました。このように表に裏に血なまぐさい権力闘争が繰り返されていた時代に、自らが物部一族を滅ぼす側に加わった聖徳太子が「和」のコンセプト、あるいは「和」の思想を十七条憲法に注ぎ込んだことに注目する必要があります。しかし同時に、そのまま「和」の精神を推し進めていけば、その時に権力の中枢にあって体制を維持する側の蘇我氏との微妙な関係が将来的に危ういものになっていくということも想像に難くありません。実際、後年、父の遺志を受け継いだ山背大兄王一族が蘇我入鹿に滅ぼされた事件(643年)は、その微妙な関係の均衡が崩れたことを象徴的に物語っているような気がします。
 さて、聖徳太子は憲法十七条を制定する前年、推古11(603)年に冠位十二階の制を制定しています。これは徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて、大徳・小徳・・・大智・小智という具合に十二階にしたものです。もちろん、儒教の根本理念である仁・義・礼・智・信を意識したものでした。「徳」とは、その他の5つを包括した最高位の理念を意味すると考えていいでしょう。つまり、仁も礼も信も義も智も、それぞれが徳を頂点とするヒエラルキーの下部構造の徳目だということです。ここで大事なのはその5つの徳目のヒエラルキーが儒教の本来の順位付けと異なっていることです。そしてそこに聖徳太子の進取の精神、あるいは革新的な思想が注入されているのです。
 儒教ではもともと礼の順位は義の後になっていますが、冠位十二階の制では仁の次に来ています。礼は、特別に付け加えられた徳を除けば実質第二位ということになり、いかに聖徳太子が礼を重要視したのかがわかります。そのことは十七条憲法の本文からも読み取れます。実に第四条から第八条までが「礼」を念頭においての条になっています。その第四条で「礼」を次のように規定しています。

 「四(よつ)に曰はく、群卿百寮(まへつきみたちつかさつかさ)、禮(ゐやび)を以て本(もと)とせよ。其れ民(おほみたから)を治むるが本、要(かなら)ず禮に在り。上禮なきときは、下齊(ととのほ)らず。下禮なきときは、必ず罪有り。是を以て、群臣(まへつきみたち)禮有るときは、位(くらい)の次亂(ついでみだ)れず。百姓(おほみたから)禮有るときは、國家(あめのした)自(おの)づから治る。(現代語訳:四に言う。群卿(大夫)百寮(各役人)は礼をもって根本の大事としなさい。民を治める根本は礼にある。上に礼がないと下の秩序は乱れ、下に礼がないときは、きっと罪を犯す者が出てくる。群臣に礼があるときは、秩序も乱れない。百姓に礼のあるときは、国家もおのずから治まる。)」

 この第四条は明らかに身分の上下関係を前提に宣言されています。その意味では、まさしく儒教的であり、現代人の意識とは乖離した、はなはだ時代錯誤的な思想に即しているように思えます。しかし、当時の時代背景・状況を考えれば、十七条憲法以降の律令制の理念がすべて後退の一途を辿ったと言ってもいいほどに第四条をはじめとする十七条憲法と冠位十二階の制には革新的、急進的な思想の息吹が感じられるはずです。その一例が、前述したように、十七条憲法の思想と密に連動している冠位十二階の制の仁・礼・信・義・智の順位付けに見られました。もう一例は、その思想を百姓(おほみたから)にまで及ぼそうという意志が表れ、こうして『日本書紀』という公の記録に庶民が登場してきたということです。そのことは、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・首(おびと)・直(あたい)・史(ふびと)・村主(すぐり)・造(みやっこ)・県主(あがたぬし)などの姓(かばね)でがんじがらめにされ、徹底的な世襲・身分制が敷かれていた当時にあっては、収穫物をただ搾取され、労働や兵役に駆り出されるだけの百姓が群卿百寮と同じ国家の構成員として認知されたということを意味します。したがって、聖徳太子は十七条憲法において儒教の精神をそのまま取り入れたのではなく、前述の徳目の順位の変更と同様、大きな修正を加えたことになります。なぜなら、儒学で聖人の述作とされている五経の一つである『礼記(らいき)』では「禮は庶人に下らず、刑は大夫に上らず(礼は庶民まで及ぼすことはできないし、刑は支配層には及ばない)」とあり、被支配層には礼など教えても無駄であるという捉え方をしているからです。一方、聖徳太子が掲げた理想国家は支配層のみならず被支配層の民・百姓にも礼が浸透してはじめて成立するという思想に基づいていたと言えます。
 このように、聖徳太子が十七条憲法と冠位十二階の制に注ぎ込んでいる精神には時代を超えて、「世の中が封建社会であろうと、民主社会であろうと、人間が互いに共同社会を営む上に欠くことのできない、またすべての基盤となるものが礼であると確信する。」と語る小泉初代校長の「礼」の精神にみごとなまで通じてくるものがあります。
 序章にて紹介しましたように、小泉先生は「仁」を問う弟子の顔淵に対して孔子が答える一節を取り上げて「礼」の意味を説明しようとしました。その件の始まりはこうでした。「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復するを、仁と為す。」 孔子は、無私になって礼を実行すれば、それが仁だと言っているのです。つまり、礼は仁の前提条件であるということです。それでは礼が目指すところの仁とは一体何なのでしょうか。いろいろな定義づけができると思います。因みに、『広辞苑』には「愛情を他人に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛。」とあります。日本人的心情に照らし合わせて一言で言えば、「真心(まごこころ)」に収斂(しゅうれん)してくるような気がします。そしてその先に十七条憲法の第一条の冒頭の「和」があるということになります。十七条憲法では仁という言葉は使っていませんが、冠位十二階の制の仁・礼・信・義・智の順に呼応して十七条のそれぞれの内容が展開している以上、聖徳太子はあえて「仁」を「和」と言い換えたということになります。

 「一つに曰はく、和(やはらか)なるを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。人皆党(たむら)有り。亦達(さと)る者少し。是を以て、或いは君父(きみかぞ)に順(したが)はず。乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然れども、上和(かみやはら)ぎ下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理(こと)自(おの)づから通(かよ)ふ。何事か成らざらむ。(現代語訳:一に言う。和を大切にし、もめごとを起こさないようにしなさい。人は誰でも仲間がいる。だが、仲間の意味をしっかりと悟っている者は少ないものである。だから君主や父に従わない者がいる。また、隣人と仲違いする者もいる。しかし、上の者と下の者が真心をもって睦まじく話し合えば、自ずと道理が通い合い、物事は成就する。)」(『日本書紀』)

 孔子と顔淵の「仁」をめぐるやりとりと、この第一条の趣旨を汲み取れば、「忤(さか)ふること無き」ように、そして「上和(かみやはら)ぎ下睦(しもむつ)び」るためには「己に克ちて礼を復する(利己を抑えて、すなわち無私になって、礼を実行する)」必要があるということになります。十七条憲法では、「仁」という言葉こそ出てきませんが、仁・和・礼は三位一体の関係で捉えられているはずです。言い方を変えれば、和は仁と礼を内包しているということになります。
 さて、みなさん、ご存知でしょうか。県相の職員室では朝の打ち合わせ前に職員が全員起立して、校長の「おはようございます」の挨拶に対し、全員が「おはようございます」と挨拶を返す慣例があるのです。まさしく、これこそ間違いなく小泉初代校長が自らの礼(節)の精神に基づいて実践したものの一つだと思います。そしてそれが40年以上経った今でも引き継がれているのです。当時の小泉校長が職員に対して深々と頭を下げて一礼をする姿が髣髴としてきます。
 校訓の二番目の標榜「信義」の意味を十七条憲法の精神に沿って探っていけば、小泉初代校長の「礼(節)」の精神はさらに明らかになってきます。もちろん、単に聖徳太子の徳目の順位の変更により礼の次に信・義と続くというだけの話ではありません。とはいえ、このこと自体も単に偶然の一致とは言えないのかもしれません。第二章にてその「信義」の意味を探っていきたいと思います。


■第二章 信義とは

■第三章 根性とは

■おわりに